本稿は、ドリュー・エステス氏の「ダーウィンからウォール街へ:進化論を賢明な投資に活用する」に対する反論です。その投稿で、エステス氏は、経済学は物理学よりもむしろ進化生物学からアイデアを借りるべきだと主張しています。エステス氏と同様に、私は金融の基礎となる哲学的核心に異議を唱えます。しかし、私は有神論的な世界観に基づいて投資プロセスを構築することを主張します。
エステス氏は、「モノであれサービスであれ、商品は企業のDNAであり、商品は多くのサブユニット、つまり『プレム(premes)』で構成されている。プレムは商業的な遺伝子である。商品ラインを区別する『遺伝の単位』である。したがって、プレムは商業の主要な『複製子』であり、企業は有機体と同様に、その『生存機械』にすぎない」と主張しています [1] 。
エステス氏の投稿から導き出される結論は、自然主義の世界観の中では非常に合理的なものです。存在が本質を生んだとすれば、投資においては進化論からの洞察が役に立つかもしれません。しかし、本質が存在を生んだとしたらどうでしょうか [2]。金融の問題は、その哲学的核心であり、つまり、我々の分析フレームワークが基づいている世界観です。
進化論の哲学的基盤である自然主義は、有神論に基づく世界観と直接対峙しています。異なる哲学的基盤から始めると、実質的に異なる投資プロセスにたどり着きます。詳細については、「哲学的ルーツに基づく金融の果実:クリスチャンの視点」を参照してください [3] 。そこでは、自然主義と有神論という2つの異なる哲学的基盤が投資に与える影響について、簡単に概観されています。
エステス氏は、「実務家によってこれほど徹底的に無視されている科学は他にない・・・経済学は進化生物学のアイデアを借りるべき」と失望しています。この科学からの逸脱は、進化論の全面的な採用の結果であるとする方が合理的かもしれません。アルヴィン・プランティンガは、「学問と科学は中立的ではなく、キリスト教の有神論、永遠の自然主義、創造的な反実在論の間の闘争に深く関与している」と述べています [4]。C・S・ルイスは、「人間が科学的になったのは、自然界に法則を期待したからであり、人間が自然界に法則を期待したのは、法則を与える存在である神を信じたからである」と述べています [5]。
有神論的な世界観に基づいて投資プロセスを構築することには、合理的な正当性があります。聖書的な責任投資(BRI)に焦点を当てた多数のファンドの出現は、自然主義では正当化されないでしょう。もしキリスト教の有神論が真実なら、BRIベースのファンドは正当化されるだけでなく、有益である可能性が高くなります。
自然主義、有神論、金融
プランティンガは、「科学と有神論的宗教との間には、表面的な対立があるが、深い一致がある。しかし、科学と自然主義との間には一致と深い対立がある」と主張しています [6]。したがって、進化生物学のような自然主義の要素に基づいて構築された投資プロセスはうまく機能しない理由があります。例えば、自然主義は、キリスト教の有神論の重要な側面である聖書の罪の概念を否定しています。
自然主義は、「全てのものは自然の性質と原因から生じ、超自然的または精神的な説明は排除または軽視されるという哲学的信念」と定義されています [7]。自然主義的な世界観からすれば、ある種の進化論は論理的です。
有神論に基づく世界観では、人間を単に感覚的な動物以上のものとして描いています [8]。金融における意思決定は、他者が傷つこうが構わず、単に自分自身の自己愛的な目標を追求することに単純化されるわけではありません。投資関連の意思決定の基礎となる理想が存在します。
科学的な活動は通常、再現性があるものに焦点を当てますが、これは金融には適用できません。マイケル・ルースによれば、科学は「自然で再現性があるもの、法則によって支配されているものだけを扱っている」としています [9]。この定義では、金融を除外しているため、制限が厳しすぎます。ジョン・C・レノックスによれば、科学は「最良の説明を推論する方法」なのです [10]。
投資運用は、とりわけパフォーマンス性(performativity)に悩まされるため、挑戦的な研究分野です。パフォーマンス性とは、金銭的な価格についての信念が金銭的な価格を変化させることを意味します。さらに、人間であることの意味を理解することも重要です。我々自身を含めて人間の堕落の現実は、適切な金融のガードレールを築くのに役立ちます。
2つの経済フレームワーク
有神論的世界観には、「初めに、神は天と地を創造した」という、存在に先立つ本質があります [11]。自然主義の世界観には、本質に先立つ存在があります。「私は、私が選んだのではない時間と場所で、信じられないほど短い時間だけ存在する、炭素に由来する塵のごくわずかな微小片(speck)に過ぎません。そしてその後、私の原子は宇宙に散らばります。」 [12]。
現代の経済分析は、規範的なアプローチ(あるべき姿)から、実証的なアプローチ(あるがまま)へと移行しています [13]。現代の経済分析は実証主義的であり、自然主義によく合います。有神論に基づく経済分析は、規範的な性格を持ち、自然主義とは正面から対立します。
2世紀以上前に経済思想が初めて形式化されて以来、富については本質的に2つの異なる見解がありました。アダム・スミスとジャン=バティスト・セイによって最初に定義された1つの見解は、富は主に形而上学的であり、アイデア、想像力、イノベーション、個人の創造性の結果であり、したがって、相対的に言えば、無限であり、大きな成長と発展の影響を受けやすいというものです。
トーマス・マルサスとカール・マルクスが提唱した富に関するもう一つの見解は、富は本質的に、そして主に物理的であり、したがって究極的には有限であるとしています。この見解を現代的に表現すれば、使用可能なエネルギーが着実に無秩序に減少しているので、全ての富は実際にはより公平に分かち合われるためのコストであるとしています [14]。現代の経済理論は、希少性の教義に基づいていることに注意してください。聖書に基づいたアプローチは、豊かさの教理とスチュワードシップの義務に基づいています。
商品か、人か
進化論を商業に当てはめると、分析の中心が物理的なものにあることは理解できます。エステス氏は、「言い換えれば、商品はDNAのようなものである。それらはプレムと呼ばれるサブユニットの複雑な構造であり、プレムはDNA内の遺伝子のように、商品に含まれるように戦っている。プレムとは、商品の価値ある提案に影響を与える属性である。それは、(レストラン・チェーンの)チックフィレイの従業員が『喜んで』と言うような些細なことにも、Appleの製品のiOSのような大きなものにもなり得る」としています [15]。
有神論的な世界観を商業に適用すると、分析の中心は形而上学的なもの、主に人々にあることが想定されます。例えば、チックフィレイの企業目的は、「私たちに託された全てのものを忠実に管理することで、神様に栄光を帰すことです。チックフィレイと接する全ての人にプラスの影響を与えることです」としています [16]。
同様に、Appleのウェブサイトでは、「Appleは倫理的に、正直に、そして法律を完全に遵守してビジネスを行っています。私たちは、Appleの成功には、世界最高の製品を作ることと同じくらい、私たちがどのように行動するかが重要であると信じています」としています。Appleのティム・クックCEOは、「私たちは、たとえそれが簡単でなくても、正しいことをする」と主張しています [17] 。多様な世界観を持つ企業経営者は、存在ではなく本質に焦点を当てている点で、共通しています。
人々が商品の複製の中心にいることは、非常に合理的です。エステス氏は、「(アイデアは)受容的な起業家の心を肥やす準備ができている花粉のように浮かんでいる」と主張しています。アイデアは本質的に形而上学的であり、花粉は物理的なものです。自然主義では、何らかの脳の活動を超えたアイデアの存在を認めていません。アイデアは有神論的世界観に内在しており、人のアイデアの合理性は、心の中で起こっていることと実際の現実との対応関係に基づいています。
現在、少なくとも90のBRIベースの金融商品があります [18]。C・S・ルイス氏は、「実際には、道徳的なルールは、人間という機械を動かすための指図である。全ての道徳的なルールは、その機械の運転における故障、ひずみ、摩擦を防ぐためにある」としています [19]。 少なくとも90のBRIベースのファンドが存在するという事実は、投資家は無形の価値と一致するファンドへの投資を望んでいることを示唆しています。キリスト信者の視点から見ると、投資運用の課題の中心は人間の心にあるのです。
[1] Drew Estes, From Darwin to Wall Street: Harnessing Evolutionary Theory for Smarter Investments
[2] モアランドとクレイグによれば、「物の本質は、その物が何であるかを定義するのに役立つ個々の性質である。さて、もし本質が存在するためには、その本質と存在行為が結びついていなければならない」(原文で太字)。J. P. Moreland and William Lane Craig, Philosophical Foundations for a Christian Worldview, 2nd edition, (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 2017), p. 477。例えば、私は魂(本質)であり、体(存在)がある。
[5] C. S. ルイスによるもので、ジョン C. レノックス「神の葬儀者: 科学は神を埋葬したか?」で引用(Oxford: England: Lion Hudson plc, 2007), p. 21.
[6] アルヴィン・プランティンガ、Where the Conflict Really Lies: Science, Religion, & Naturalism, 2011, p. ix.
[8] 著者の視点はキリスト教の世界観からのものです。
[9] マイケル・ルース、Darwinism defended: A guide to the evolution controversies. (Reading, MA: Addison-Wesley, 1982), p. 322.
[10] ジョン・C・レノックス、God's Undertaker: Has Science Buried God? (Oxford, England: Lion Hudson, plc, 2009), p. 32.
[11] Genesis 1:1, Bible, English Standard Version参照
[12] エマ・パティー、「Covid-19は私たちに私たちの死について考えさせてくれます。私たちの脳はそのために作られていません」The Washington Post, October 7, 2020 パティーはシェルドン・ソロモンの言葉を引用。
[14] ウォーレン・T・ブルックス、The Economy in Mind (NY: Universe Books, 1982), p. 12.
[15] 先に引用したEstes (2024)を参照。
[19] C. S. ルイス、Mere Christianity, Book III, Chapter 1, p. 59.
執筆者
ロバート E ブルックス(Robert E. Brooks)、PhD、CFA
(翻訳者:今井 義行、CFA)